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こみせ通りの歴史的背景と概要

こみせ通りの歴史

「黒石津軽家」創立と町割り

「黒石津軽家」が誕生したのは、江戸時代前期のことです。

弘前藩第3代藩主・津軽信義の急死により、わずか11歳で藩主になった信政の後見役に命じられたのが信義の弟津軽信英(のぶふさ)でした。

明暦2年(1656)、信英が弘前藩から5,000石を分知され、黒石初代領主となりました。

信英は、陣屋を造るとともに分知以前からあった古い町並みに侍町、職人町、商人町を加えて、新しい町割りを行いました。これが現在の町並みの基本になっています。

こみせ通りに関連する道路の変遷と商店街の移り変わり

中町や前町は、こみせのある商店が立ち並び商業の中心として栄え、また、浜街道として多くの人々が集まる通りでもありました。

しかし時代の流れとともに、商店街の中心は隣接する地区などに移ることになります。

この要因として、大火事、道路や鉄道網の整備などが挙げられます。

こみせの建築年代

商人町の大きな特徴であるこみせは、黒石初代領主・津軽信英が町割りをした際に奨励して作らせたと言われています。

重要文化財の高橋家住宅が建築された宝暦13年(1763)頃には、中町にはこみせを持つ商家が立ち並んでいたようです。

こみせの権利形態

こみせは、藩政時代には公有地に作らせたものであり、公のものとして扱われていました。

その後、明治の地租改正時に私有地になりましたが、完全な私有財産になったにもかかわらず、人々の通行を妨げることなく公共の空間として、現在も存在し続けています。

 

「こみせ」とは

こみせと雁木

通りに面した町家の正面に設けられたひさしを、青森県や秋田県地方ではこみせと呼んでいます。

同じものが、新潟、長岡、高田では雁木と呼ばれるなど、地方によって呼び名が違います。

ひさし下の空間は、商店の一部として商業発展的な目的をもつばかりでなく、積雪時の貴重な歩行通路となります。

その有用性のために、積雪地帯において維持されてきたといえます。

こみせの形

黒石のこみせは、主屋の1階の高さに合わせてひさしをつけた「落とし式」となっています。

陣屋の建設と同時に、冬期間の歩行通路を確保するために作られたものですので、道路上に短時間で建設できる形が採用されたのです。

こみせ自体の構成はシンプルですが、吹き込む雪を防ぐために落とし込む「しとみ」や、幕板、欄間風の細工、庭への入り口部分に設けられた入母屋屋根など、通り全体の統一性を保ちつつ家ごとに個性のある、すぐれた意匠となっています。

こみせの空間

現在、こみせは個人の建物の一部です。そのこみせが連続することによって作られるこみせ通りは、多くの人々に利用される曖昧で不思議な空間です。

夏の日ざしや雨を遮り、冬は雪を避けて通行できるかけがえのない歩行通路です。

知人とのあいさつや情報交換の場、子どもたちの遊び場にもなり、また、買い物がしやすくなるという商売上の利点もあります。

中間領域的な性質を持ち、さまざまに機能するこみせ通りは、人々にとってなくてはならないものでした。

 

 

こみせ通りの建物

間取りと内部の特徴

こみせ通りの商家は、通り土間に沿って部屋が並ぶという間取りが典型的です。間口の大きさによって、1列または2列に店や座敷が配置され、坪庭を設ける場合もあります。

通り土間は、冬季積雪期間の生活に欠かすことのできない通路であり、坪庭は、間口が小さい屋敷において屋内採光上有効であるということです。

通り土間には天井を張らずに梁組を見せていることも、特徴の一つです。梁や胴差し、小屋束が整然と組まれていて、木の美しさと当時の匠の技を実感できる、魅力ある空間です。

外観の特徴

屋根は切妻造が主体で、妻入りと平入りが混在しています。

間口が大きい家は妻入り、間口が小さい家は平入りが多くなっていますが、これは、冬場の雪降しの都合によります。

主屋のわきに余裕がある場合は、その部分に雪を溜めておくことが可能ですが、隣家と接近して建っている場合は、道路側や屋敷の奥のほうに雪降ろしをすることになるのです。

主屋や店舗は、木造真壁造が主流で、外壁は土壁中塗仕上げ、しっくい仕上げ、板張りです。

土壁やしっくい仕上げの土蔵は、雪の被害から守るために屋内に取り込まれていることが多く、景観上は目立つ存在にはなっていませんが、工夫を凝らして丁寧な仕上げを施した、素晴らしい意匠の土蔵が数多く残っています。

こみせの構造

中町の景観は、こみせによって大きく特徴付けられています。
商家のファサード(道路側の正面)や町並み景観を形成する大きな要素であるこみせは、主屋1階の高さに合わせてひさし屋根を設け、これを1間から1間半ごとに立ち並ぶ柱によって支えます。

幅は1.6メートル前後、軒高2.3メートル前後、屋根勾配は2寸勾配前後、天井は垂木表しです。

軒の出は0.5~0.6メートルで、軒先が道路にはみ出しています。

前堰(現在は側溝)に雨だれや雪を落とすため、このような形になっています。

 

 

こみせ通りの変容と現状

発生、形成、衰退

江戸時代に形成され確立したこみせ通りは、最盛期には総延長4.8キロメートルにも及んでいましたが、明治以降、変容を余儀なくされました。

火災で焼失したあと再建されなかった、鉄道網の充実により街道に人が集まらなくなった、車社会の発達のため道路の拡幅などが行われ取り壊された、などの理由により、こみせが姿を消していきました。

2.中町に存在し続けたこみせ

中町周辺だけは、連続性を保ったまま保存され続けてきました。

その理由として、中町にある商店の特殊性が挙げられます。

造り酒屋、しょうゆ屋、米屋、呉服店、銭湯など、近代的な店構えにしなくても成り立つ業種が多かったということです。

むしろ昔ながらの重厚な店構えであったほうが商売上有利だったのです。
また、長年住み続けている世帯が多く共同体としての意識が高いことや、幼いころから当たり前に存在していたこみせに対する無意識の愛着なども、中町にこみせが保存されてきた要因と言えます。

3.こみせ存続のための動き

昭和50年文化財保護法の改正により伝統的建造物群が文化財の種別に加わってから数年後、黒石でも保存調査報告書を作成しましたが、残念ながら、この時には伝統的建造物群の指定には至っていません。
その後、中町においてもこみせを持つ伝統的な商家が次第に解体され、こみせ通りの連続性が失われていくことへの危惧が大きくなっていきました。

貴重な文化資産であるこみせ通りを保存復原して行かなくてはならないという声が、住民だけでなく市民全体から聞かれるようになりました。
平成元年、黒石市民のこみせに対する思いの強さを顕著に表した出来事が起きました。

中町で長年商売を続けていた商家が土地をマンション業者に売却せざるを得なくなったときに、こみせ通りにそぐわないマンションの建設を阻止するべく、25名ほどの市民が協力して7000万円近くの資金を用意し、売却予定日の前日にその土地と建物を取得したのです。

その後「こみせ駅」という名称で、津軽三味線の生演奏、みやげ物販売、蔵を利用した多目的ホール運営などさまざまな活動を展開してきており、中町の活性化と観光に大きな役割を果たしています。

 

 

こみせ通りのこれから

たくさんの方々の活動や思いが実を結び、平成17年重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。

その後、「手づくり郷土賞・大賞」「美しいまちなみ・優秀賞」を受賞、「美しい日本の歴史的風土100選」にも選定されました。

江戸時代から連綿と受け継がれてきたこみせ通りに対する人々の思いと、その歴史的背景を持った伝統的な形態の特性と価値を、正しく次世代に伝えていかなければなりません。

地域住民と地域外の人々、あるいは行政と民間、それぞれの立場でそれぞれの視点を持ちつつ、皆で協力してこみせ通りを守っていきたいものです。