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黒石よされの「歴史」と「伝統」

流し踊り登場

(昭和35年の一番町通り)

現代の流し踊り

(平成29年の中町こみせ通り)

廻り踊りで大賑わい

(昭和期の市ノ町)

「雀に稲穂」の浴衣

 

黒石よされは、500~600年前に唄われた男女の恋の掛け合い唄が起源と言われていますが、「よされ」という言葉の語源は諸説あります。

一説によれば、豊作で楽しいときは「仕事をよして楽しみなされ」、凶作で苦しいときは「このような世の中は早く去れ」と言ったことから生まれたとされています。

 

江戸時代後期、黒石藩の家老・境形右衛門(さかいぎょうえもん)が経済振興策として、当時は「盆踊り」と呼ばれていた黒石よされを奨励したことから、黒石の町は大いに賑わいました。

その頃、隣の弘前藩では度々盆踊り禁止のお触れが出されていたのに対して、黒石の盆踊りでは、お面を付けたり仮装したりして、武士も農民も町人もみな踊りを楽しむことが出来ました。

そのような開放性が人気を呼び、おとなり弘前藩からも多くの人々が集まっていたと伝えられています。

 

明治に入ると、盆踊りは中央から来た県令によって禁止されますが、伝承によれば大正期には黒石の盆踊りは復活していたようです。

昭和初期には近隣の村々から津軽民謡の「手踊り」の団体が黒石の町に来るようになります。

 

戦後、盆踊りは経済活性化の起爆剤として再登場します。

各町内には特設舞台を設置し、手踊りを複数人で踊る「組踊り」が行われるようになりました。

そして、昭和33年(1958)に「黒石よされ」、「黒石甚句」に合わせて踊る江戸時代以来の「元踊り」から、みなが踊れるように新しく振付けし直した「廻り踊り」が誕生しました。

この振付けは、「黒石よされ」、「黒石甚句」、「黒石じょんから」、「ドダレバチ(津軽甚句)」の四曲に合わせて作られました。

昭和35年(1960)には、廻り踊りの振付けはそのままに市中を練り歩く「流し踊り」が始まりました。

この時、流し踊りの浴衣は"雀に稲穂"というデザインに揃えられます。

これは、「黒石よされ」の振付けに、稲穂に寄って来た雀を追い払う動作があることに由来します。

 

昭和57年(1982)、日本フォークダンス連盟は、全国の踊り上手のための全国講習会特別講習の課題に徳島県の「阿波踊り」、岐阜県の「郡上踊り」、「黒石よされ」の三つを指定し、これを契機に「日本三大流し踊り」の称が生まれました。

同年、黒石市は黒石よされの元踊りを市の無形民俗文化財に指定します。

 

しかし、大きな時代の流れの中では、踊りの参加者や観光客数の減少に向き合わねばならず、祭りを盛り上げようと様々な新しい企画が立ち上げられていきます。

そうした中、平成5年(1993)には、今ではすっかり定着している「黒石よされニューバージョン」が発表されました。

この年、長寿で有名だった双子の姉妹「きんさん・ぎんさん」も見物に来ています。

 

黒石の町を生きた人々が、町の発展を願い、工夫を重ねて育ててきた黒石よされの「歴史」――。

現在、黒石よされは、流し踊り・廻り踊り・組踊りを三本柱とし、祭り期間中は大川原の火流し、浅瀬石川灯籠流し、ふるさと元気まつりなどが黒石を盛り上げます。

津軽の短い夏を華やかに飾る黒石よされは、黒石ならではの「伝統」として脈々と受け継がれています。