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黒石よされの「唄」いろいろ

愛宕山地蔵院

愛宕さまの「お堂のかげ」

浅瀬石城址案内板

「じょんから節発祥の地」の碑

黒石よされの流し踊りで流れる唄は、

  • 「黒石よされ」
  • 「黒石甚句」
  • 「黒石じょんから」
  • 「ドダレバチ(津軽甚句)」

の四曲。

 

駅前広場の廻り踊りには

  • 「黒石音頭」
  • 「平成黒石音頭」
  • 「黒石よされニューバージョン」
  • 「どだればち・サンバ」

の四曲も加わります。

 

これらの歌詞は次の通りです。

黒石よされ

  1. 黒石よされ節 どこにもないよ サーアンヨ 唄ってみしゃんせ 味がある ヨサレサーアンヨ
  2. 十和田帰りに 車をとめて サーアンヨ お湯の温湯(ぬるゆ)で ひとやすみ ヨサレサーアンヨ
  3. 見たか黒石 聞いたかよされ サーアンヨ 盆の踊りは 日本一 ヨサレサーアンヨ
  4. 岩木眺めて 踊ろじゃないか サーアンヨ 秋はりんごと 米の山 ヨサレサーアンヨ
  5. 黒石城下町 水清い ヨサレサーアンヨ 水がよいので よい酒できる サーアンヨ
  6. よされ駒下駄の 緒コァ切れた ヨサレサーアンヨ たてて間もなく また切れた ヨサレサーアンヨ
  7. 踊り踊るなら 愛宕の庭(ツボ)で サーアンヨ 深くなるほど お堂のかげ ヨサレサーアンヨ
  8. よされ よされは どこでもはやる サーアンヨ まして黒石 なおはやる ヨサレサーアンヨ

黒石甚句

  1. サアーキタコラサッサ 乙女心を 紅葉に染めて 燃えて流れる 中野川
  2. サアーキタコラサッサ 温湯(ぬるゆ)・板留 かつぶしいらぬ 中野もみじを だしにとる
  3. サアーキタコラサッサ 嫁に来るなら 白粉いらぬ 黒石湯の町 肌光る
  4. サアーキタコラサッサ 宿の二階に 疲れを解けば お湯の板留 河鹿(かじか)鳴く
  5. サアーキタコラサッサ いで湯あちこち 浅瀬石川よ ちょいと登れば 十和田湖よ
  6. サアーキタコラサッサ 住まば黒石 清水の里よ 今日も平和な お湯が湧く
  7. サアーキタコラサッサ 着いた湯の町 紅葉の山よ 窓に眺める 二人づれ
  8. サアーキタコラサッサ 米とりんごに 命をかけて 明日の黒石 築く夢

 

黒石じょんから

  1. 国は津軽の 岩木の川原 三日続きの 大雨降りで その夜雨にて 大川にごる
  2. 国の殿様 馬に乗りかけて 川原近くに お出ましなさる 里の娘は 大根洗う
  3. それを見てとる 馬上の殿は 無理な難題 娘にかけた そこで娘の 言うこときけば
  4. 国の殿様 なに言わしゃんす 川が狭いたて 後ばね出来ぬ 石が小さいたて 歯が立つもだな
  5. 山が低いたて しょわれたもだな 針が細いたて 飲まれたもだな 裸で野はらさ 寝られたもだな
  6. ここの道理を 良く聞きわけて おらが領分 よく見てまわれ 水の出ないように 百姓まもれ
  7. これに殿様 感心してか 娘ほしさに もらいをかけて 奥のおとのに おさまりました

ドダレバチ(津軽甚句)

  1. 唄はよいもの 仕事コァ出来る 話わるいもの その手がとまる
  2. 夫婦二人で 田の草取れば 広い一町田もアリャせまくなる
  3. 高い山コから 田の中見れば 見れば田の中 稲よくもでる
  4. 今年しゃ豊作だよ 雀コさわぐ せがれいそいで 案山子を立てろ
  5. どだばむげのなみゃ 口ねなどだば 口も手もある カラポネやめる
  6. カラス啼く啼く お宮の屋根で カラスその日の アリャ役で啼く
  7. どだば家コのてでゃ 雨降る中を 笠もかぶらねで ケラコも着ねで
  8. 大石坂より 松坂よりも おれの親爺の 言うことおかね
  9. どだば見事だば 津軽のりんご 色コばりでねじゃ この味みなが

 

黒石音頭

作詞:松本一晴 作曲:上原げんと 編曲:池多孝春

  1. アー ヨサレ ヨサヨサ 手拍子揃えてナー 三里 弘前 十和田へ十里ヨー 合の黒石 リンゴの出どこ ソレ 酒の名どころ 米どころ サテ ヨサレサアー アンヨで踊りゃんせ
  2. アー ヨサレ ヨサヨサ 手拍子揃えてナー 浮世 人生は五十のたとえヨー わしが町なら 六十路(むそじ)の祝い ソレ 地元繁盛の花が咲く サテ ヨサレサアー アンヨで踊りゃんせ
  3. アー ヨサレ ヨサヨサ 手拍子揃えてナー 雪で化粧した 津軽の富士とヨー 可愛いあの娘の紅さす笑顔 ソレ 眺めあかして 惚れぼれと サテ ヨサレサアー アンヨで踊りゃんせ
  4. アー ヨサレ ヨサヨサ 手拍子揃えてナー 呼んで 招いて 七村 寄せてヨー 響け文化の 大黒石ヨー ソレ 南津軽の この都 サテ ヨサレサアー アンヨで踊りゃんせ

 

平成黒石音頭

作詞:山田末廣 作曲:上原隆治

  1. 甲田、岩木の 山うるわしく 浅瀬石川の 水清し 米とリンゴと 出湯の街よ 伸びる黒石 輝く未来 ☆サァサ明るく 手拍子打って 老いも若きも 老いも若きも 踊る平成 黒石音頭
  2. 津軽のひがし 観光名所 十和田に青荷 温泉郷 こけしの里は 人情厚く 愛と平和で 豊かな未来 ☆(1番と同じ)
  3. 明治、大正 昭和も越えて 香る文化の 花が咲く よされ、じょんから ネブタのはやし ロマン広がる 希望の未来 ☆(1番と同じ)

 

どだればち・サンバ

作詞:松村慎三 補作詞:志賀大介 作曲・編曲:福田正

  1. 右に右に下北 左に津軽 中で気をもむ 夏泊(なつどまり) ドダバ ドダレバチャ ダレバチャまごだ ホーイ ホイ 情け色づく りんごの里の 女もいい 男もいい いい者同志で ホーイ ホイホイ ☆ドダレバチャ ダレバチャ ドダレバチャ ダレバチャ ホーイ ホイ
  2. 陸(おか)は陸は豊年 稲穂の波よ 海は大漁の かざり船 ドダバ ドダレバチャ ダレバチャまごだ ホーイ ホイ 岩木お山と 八甲田山 姿もいい 形もいい いい者同志で ホーイ ホイホイ ☆(1番と同じ)
  3. 恋の恋の甚句に 涙のよされ おはら・じょんがら 故郷(くに)の唄 ドダバ ドダレバチャ ダレバチャまごだ ホーイ ホイ おくに自慢の 奥入瀬・十和田 ねぶたもいい ねぷたもいい いい者同志で ホーイ ホイホイ ☆(1番と同じ)

※「黒石よされニューバージョン」には歌詞がありません。

 

この内、流し踊りの四曲について、解説と考察を加えてみたいと思います。

「黒石よされ」「黒石甚句」

「黒石よされ」と「黒石甚句」は、共に江戸時代以来の黒石よされ節が元になって作られ、整えられたようです。その昔、黒石よされ節は、盆踊りで唄われた恋の掛け合い唄でした。

そして、盆踊りの期間だけはかなり大らかに男女の交際が認められていた為、歌詞には普段口に出せないようなありのままの心情を乗せていました。

現在の「黒石よされ」や「黒石甚句」には、露骨な表現の唄は残されていませんが、暗示的な唄は含まれています。

「黒石よされ」の六つ目の節は次の通りです。

 

  • よされ駒下駄の 緒コァ切れた (掛け声略)
  • たてて間もなく また切れた (掛け声略)

 

この唄は、男が娘に何かを強要した為、娘の駒下駄の鼻緒が切れてしまった。それで、切れた鼻緒を直したが、男がしつこいせいか、別の男がまた現れたせいか、すぐまた鼻緒が切れてしまったと、黒石よされの一コマを切り取っています。

また、七つ目の節は次の通りです。

 

  • 踊り踊るなら 愛宕の庭(ツボ)で (掛け声略)
  • 深くなるほど お堂のかげ (掛け声略)

 

この唄で登場する「愛宕」とは、今も黒石市山形町にある「愛宕山地蔵院」のことを指しています。

現在、境内は2,200平方メートル余りですが、かつては約10,000平方メートルもの広さがあり、黒石よされの踊り場として有名でした。

昔は鬱蒼とした杉木立や桜並木があり、「お堂のかげ」は昼間でも薄暗かったそうです。

この唄は、愛宕様の境内で踊り明かし、踊りの相手と仲が深くなるにつれ、段々と薄暗いお堂のかげに近付いていくのだと、当時のお決まりの流れを聞かせているのでしょう。

ちなみに、「甚句」とは、七・七・七・五の短詞型をとる民謡のことを指します。黒石よされ節の場合は、七・五・七・五の短詞型も含まれています。

 

「黒石じょんから」

「黒石じょんから」を『広辞苑』(第六版)で調べると、

 

  • 津軽じょんから節:津軽地方の民謡。リズミカルな酒盛り唄。新潟地方の「新保広大寺(しんぼこうだいじ)」「越後口説(くどき)」の系統を引き、津軽三味線とともに発展。「じょんから」は「ちょんがれ」と同じ意ともいう。
  • ちょんがれ:「ちょぼくれ」に同じ。
  • ちょぼくれ:小さな木魚二個を叩きながら、阿保陀羅経(あほだらきょう)などに節をつけて口早に謡う一種の俗謡。また、それを謡いながら米銭を乞い歩いた乞食僧。江戸時代に流行し、町民の幕政批判がこめられていた。「ちょぼくれ、ちょんがれ」の囃子詞(はやしことば)を入れた。ちょんがれ。

 

とあります。

 

しかし、じょんから節の起源は、黒石に三百五十余年栄えた浅瀬石城(あせいしじょう)の千徳(せんとく)家が室町時代末期に滅んだ悲話であると語り継がれています。

 

慶長2年(1597)、既に津軽の大半を領していた津軽為信は、嘗ての盟友であった千徳政氏の子である浅瀬石城主・千徳政康(保)(まさやす)を攻め滅ぼしました。

津軽家と千徳家は共に南部氏の枝葉でしたが、永禄6年(1563)に「永禄の約」という軍事同盟を結んでからは共に北畠方・南部方の諸城を攻略し、津軽統一を成し遂げたのでした。

 

しかし、津軽為信は天正18年(1590)に豊臣秀吉より南部氏から独立した津軽の領主として実質的に認められると、千徳政康を臣下として扱い、文禄3年(1594)には領地(平賀郡・田舎郡の所領を核として、秋田県比内辺りから現在の青森港辺りまで広がっていた)と家士の数を制限しようとしたので、為信と政康の関係は険悪となり互いに敵視するようになっていったのでした。

 

到頭、慶長2年2月20日、津軽為信は浅瀬石城を攻め、激戦の末同月28日に浅瀬石城は陥落し、初代行重(南部氏初代・光行の孫)から十一代栄えた千徳氏は滅亡しました。

 

この時、浅瀬石にあった千徳家の菩提寺・五倫山神宗寺(現在の長寿院)の一坊に辻堂があり、そこで住職として奉仕していた常縁和尚は、千徳家累代の位牌を背負い寺から逃れます。

しかし、三年後敵の追っ手に居場所を見つけられて、常縁和尚は浅瀬石川の深淵に身を投げ出して亡くなりました。或いは、落城の際に敵兵に追い詰められて濁流に身を投げたとも言われています。

 

それから夏になり、川原で遊んでいた子供達が常縁和尚の変わり果てた姿を見つけます。

村人達は常縁和尚を懇ろに葬り、亡骸が見つかった神宗寺近くのその川原を「常縁川原」と名付けました。

後に常縁川原は「上川原(じょうがわら)」と呼び名が変わります。ちなみに、「じょんから」という地名が天和年間(1681~1684)の図面に記されているそうです。

 

数多くの寺社を擁し、天正年間(1573~1592)には「城下の町屋七百軒」と称された浅瀬石城は、戦火に焼かれ、城郭を打ち壊され、城下町は一農村に変えられてしまいました。

村人達は千徳家繁栄の往時を偲び、切々と悲哀を訴える「口説節(くどきぶし)」が生まれます。それが「上川原節」と呼ばれるようになり、やがて「じょんから節」という名が広まっていきました。

 

時の流れと共に、じょんから節には様々な唄が付けられます。今は本来の口説節とは著しく趣の変わった、観光的色彩の濃いものが唄われています。

 

なお、浅瀬石落城後、津軽一円では為信とその子孫の治世が明治まで続いた為、千徳家の悲劇を語る元来のじょんから節は全く密かに唄われました。

それ故、当時の文句は伝わらないといいます。

しかし、「元唄」「上川原口説き」と呼ばれる次の歌詞は、最もよく口説節の形を留めていると考えられます。

 

  1. ハアー  サァサこれから読みあげまする 津軽浅瀬石じょんから節よ さても哀れな落城の話
  2. ハアー  今は昔の七百余年 南部行重城主となりて 伝え伝えて栄えし町よ
  3. ハアー  頃は慶長二年の春に 津軽為信大軍ひきい 城主政康討死(うちじ)をいたす
  4. ハアー  時に辻堂常縁和尚 先祖代々位牌を背負い 高い崖から濁流めがけ
  5. ハアー  やがて春過ぎ真夏となりて 村の子供等水浴びすれば 砂の中からあわれな姿
  6. ハアー  村の人達手厚く葬り 盆の供養をすました後は 昔偲んでじょんから節よ

 

「ドダレバチ(津軽甚句)」

「ドダレバチ(津軽甚句)」は、田の草取りの作業唄から盆唄に発展したもので、黒石・弘前を始めとして津軽一円で唄われています。

また、津軽の数ある盆唄の中でも由緒が古く、津軽藩祖・津軽為信の頃から伝承されていると伝わっています。

 

「ドダレバチ」という唄の名の由来は、元唄の最初に唄う「ドダバ、ドダレバチャ、ダレバチャ孫だ」のドダレバチを取ったものです。

解釈は難しいですが、「どうなんですか、誰の婆様ですか、あの娘は誰の婆様の孫ですか」というような意味とも考えられています。

 

ドダレバチの五つ目の節は、男女の掛け合いの形式です。

「どだばむげ(向かい)のなみゃ(並み) 口ねなどだば」とは、「どうなんです、向かい側の皆さんよ、(唄も唄わないで)口が無いのか、どうなんですか」という問い掛けです。

それに答えて、「口も手もある カラポネやめる」と言います。

これは、「(唄う為の)口も(踊る為の)手もあるが、骨惜しみをしているのサ」という意味です。

つまり、唄いもせず踊りもせず、調子を取ろうともしない人達に向かって一緒に踊らないかと誘い掛けているわけですが、相手の方は唄や踊りを知らないはずもなく、あんたたちと一緒に踊りたくないから骨惜しみをしているだけだよと、にべもなく断ります。残念ながら恋は実りそうもありませんね。

 

七つ目の節も津軽弁が多く使われています。「どだば家コのてでゃ」は、「どうですか、別家のとうさんや」という呼び掛けです。

「家コ」とは津軽弁で本家に対する別家・分家を指しますが、この場合単に「家、住居」という意味で考えてもよさそうです。

そうすると、「えーっ! あの家のとうさんったら」と驚いて指さしているような情景が思い浮かびます。「てでゃ」は父のことです。

ちなみに、父を意味する「てて」は上代から使われていた言葉で、平安時代成立の『宇津保物語』や鎌倉時代成立の『宇治拾遺物語』を始め、数多く用例が残されています。

 

「雨降る中を 笠もかぶらねで ケラコも着ねで」とは、「雨が降る中なのに、笠もかぶらず、蓑も着ないで」という意味になりますが、津軽弁の「ケラコ」は一般の「蓑」とはやや異なります。

普通、「蓑」とは茅や菅、真菰などの茎や葉から作りますが、津軽の「ケラコ」は主として藁やわらしべから作るのです。

なお、「ケラコ」の「コ」は津軽弁の語に種々付く接尾語で、「ケラ」と言っても通じます。

ケラコは、笠と共に雨の日に用いられ、昔の津軽では農作業の必需品でした。

 

黒石よされの唄には、津軽、そして黒石に生きてきた人々の喜びと悲しみが生き生きと伝わっています。

唄の意味を知らなくても楽しい黒石よされですが、唄の内容や歴史を深く知ってから踊れば、まるで遠い昔にタイムスリップして、当時の人になったような錯覚に陥ります。

黒石よされの起源は盆踊りです。

お盆には、遥か昔から途切れることなく続いてきたこの命の尊さを思い、祖先に感謝を捧げたいものです。

 

参考文献

  • 『青森県史通史編1 原始 古代 中世』青森県史編さん通史部会編、青森県発行(平成30年)
  • 『浅瀬石城落城四百年記念 浅瀬石沿革史 常住不滅』浅瀬石城落城四百年記念事業協賛会編、津軽新報社(平成9年)
  • 『浅瀬石物語 語りつがれてきた話コ』佐藤保編、津軽新報社(平成16年)
  • 『唄と踊りの祭典 黒石よされ』石澤清三郎著、津軽新報社(平成10年)
  • 『黒石市50年の歩み』黒石市発行(平成16年)
  • 『黒石市史 通史編Ⅰ 古代・中世・近世』黒石市発行(昭和62年)
  • 『黒石の盆歌』鳴海静蔵編、セイビン社(平成9年)
  • 『津軽のことば』鳴海助一著、津軽のことば刊行委員会(初版は昭和32年より昭和36年まで順次刊行)
  • 『保存版 弘前・黒石・平川・中南津軽今昔写真帖』三浦行一監修、郷土出版社(平成21年)